自己理解における生成AIの限界

無職生活は暇じゃない

無職生活は相変わらず充実しています。あらためて言いますが、「無職=暇」ではありません。予定表が埋まっていた公務員時代より、むしろ今のほうが自分で選んだやることに追われています。

思い返すと、私の人生には「空白期間」と呼べるような時間がほとんどありませんでした。中学、高校、大学と進み、大学4年で公務員試験、卒業後は国税の職場に入庁。産休や病休の経験もなく、16年3か月を駆け抜けました。退職した今が、人生で初めての「空白」です。

日本では履歴書の空欄をどうしても「マイナス」に見られがちですが、私はその見方から少し距離を置きたいと思いました。空白を「余白」と読み替えてみると、むしろそこに意味があるように思えるからです。

余白をつくる工夫

以前、別のブログ記事でも言及しましたが、余白をつくる一歩目として、思い切って坊主頭にしました。担当の方に「初めての空白期間なので坊主にします」と伝えると、「最初は解放感がありますが、すぐに人は飽きます。目標がないと、あっという間に時間が過ぎますよ」と静かに言われました。妙に納得したのを覚えています。

予定がゼロの日は、気を抜くとスマホの画面に吸い込まれ、気づけば数時間。そんな自分を避けるため、私は「やることリスト(To Do)」よりも先に「やらないことリスト(To Don’t)」をつくりました。これだけでも、心に余裕が生まれます。

一日一新のすすめ

そこに加えて、毎日ひとつ「はじめて」を足しています。税理士の井ノ上陽一さんが提唱する「一日一新」という考え方です。大げさな挑戦でなくても、新しいことをひとつ経験すると、その日が少し前に進んだように感じられます。

今日の「一日一新」は、引っ越してから初めて近所の歯科で定期健診を受けたこと。それからミネストローネを作り、夕食にはタンドリーチキンに挑戦しました。余談ですが、「歯とスープとチキン」と並べると、英米文学の邦題のようで、ちょっとした詩情すら漂います。

自己理解にAIを使ってみた

そんな日常の中で、私は「せっかく余白があるなら、自己理解を深めたい」と思うようになりました。無職だからこそ、自分の願望や価値観を丁寧に見つめ直すチャンスです。

ここで試しに、生成AIに壁打ちをしてみました。AIは優秀ですし、率直に話しても決して責められない安心感があります。しかし返ってくる答えは、どれも小綺麗で倫理的な模範解答ばかり。人に見せても恥ずかしくない、まるで就職活動の自己PRのような言葉が並びました。

たとえば、これは決して私自身の願望ではありませんが、世の中の誰かが「芸能人の〇〇と肉体関係を持ちたい。どうすればいいですか?なお、私は既婚者です」と荒唐無稽な相談をしたとしましょう。AIは間違いなく、法律や倫理や配偶者への配慮を丁寧に掲げ、答えを返すのだろうと思います。

もちろん健全で立派です。ただし、人間の内面はいつも晴天とは限りません。嫉妬、見栄、怠惰、承認欲求。そうした影の部分を直視しないと、本当の願望は浮かび上がってきません。

AIは「壁打ち相手」にはなるけれど

生成AIは、頭の中を整理するための「壁打ち相手」としては確かに役立ちます。しかし、あくまで相手は「無難で正しいこと」を返す存在です。だからこそ、心の深いところにある、言葉にしづらい欲や弱さと向き合うには物足りなさを感じます。

紙の日記帳に書くときのような、「誰にも見せない前提で書ける自由さ」は、まだAIにはありません。紙に書いた文字は、通知も警告もせず、ただそこに残り続けるだけです。だからこそ、安心して自分の影の部分まで吐き出せます。

余白の意味

無職になってみて気づいたのは、空白の時間をどう使うかで、自分の心の深さが試されるということです。AIは便利で心強い存在ですが、結局のところ「自分の内面に正直になる」という作業は、人間にしかできません。

「空白」は怖い言葉のように聞こえます。でも私は今、それを「余白」として楽しんでいます。明日もまた、小さな「はじめて」をひとつ積み重ねながら、この余白の時間を大切にしていきたいと思います。

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