最近、ふとした拍子に考えることがあります。
もし自分が今の時代――令和の世の中で、20歳前後の若者だったとしたら、どう立ち回るだろうか。
学歴、仕事、結婚観。どれを取っても、自分が若かった頃とはまるで前提が違う。いわば思考実験のようなものですが、こういう空想は嫌いじゃありません。
学歴の「効力」が薄れた時代に
私は39歳なのですが、大学を卒業してすぐに国税職員になりました。
ただ、もし高校を卒業してすぐに国税職員になっていたとしたら――そんな仮定で考えてみることがあります。
仮にそのまま勤め続け、20歳で職場内結婚をして子どもができていたとしたら、今ごろその子が成人を迎える頃です。そう思うと、なんとも不思議な気持ちになります。
国税に残っていようが、別の道に進んでいようが、40歳からの第二の人生をどう生きるか――そんな世界線もあったのかもしれません。
今の時代、「いい大学に行って、いい会社に入れば安泰」という価値観はすっかり薄れました。
それでも、大学に行くことの意味がまったくなくなったわけではありません。
知識や人脈、あるいは人生のモラトリアム期間としての価値は依然としてあります。
とはいえ、高校を出てすぐ社会に出るという選択も、いまの時代では十分に現実的です。
結婚とパートナーシップ
「独立することについて、奥さんはどう思われているんですか?」と聞かれることがあります。
私の場合、独立したら自宅兼事務所になる予定だったので、妻(フルリモート勤務)とはほぼ一日中一緒にいる生活になります。
結果的に、それを「一緒にいられる時間が増えていいじゃん」と前向きに捉えてくれていて、ありがたい限りです。
「公務員だから結婚したのに、個人事業主になるなんてありえない。離婚」――と切り出されるのでは、と心配する声もありましたが、幸いそういう方向にはならず。
むしろ「自分で舵を取る生き方、いいね」と応援してくれています。
もし自分が今の20代なら、結婚という形式にこだわらず、“互いの働き方や距離感を尊重し合うパートナーシップ”を選んでいた世界線もあるかもしれません。
仕事を選ぶということ
今の私は税理士という職業についています。数字は嫌いではありませんが、根っからの理系でもない。
高校の頃は数学と化学が好きで、物理は壊滅的。国語と数学の組み合わせが得意という、なんとも中途半端なタイプでした。
歴史の授業はあまり得意ではなく、テスト前の暗記でなんとか乗り切る感じ。
今になって思えば、もっと自由に歴史を楽しめばよかったと思います。
たとえば司馬遼太郎の『国盗り物語』とか。当時は『覇王の家』を読み始めて挫折しましたが、いまならもう少し理解できる気がします。
もし令和の時代に生まれていたら、きっと文系のホワイトカラー職に就いていたでしょうね。
もともと公務員を目指した理由のひとつは、親が中小企業を営んでいて、経営の厳しさを身近に感じていたからです。
もうひとつは、就職活動という「運ゲー」みたいな不確実性を避けたかったというのもあります。
試験に受かれば安定して働ける――それが魅力的に見えた。
悪く言えば「就活から逃げた」とも言えますが、当時の私にとっては合理的な選択でした。
令和の暮らしとお金の話
仮に今の時代に国税の職場へ入るとしたら、きっと独身寮か、実家からの通勤になるでしょう。
若い人が都内で一人暮らしをするには、家賃があまりにも高すぎます。
社会人になってから実家に住むことを「ダサい」と感じる風潮は、もうなくなりつつあるような気がします。
むしろ、実家に感謝しながら、浮いた家賃を貯蓄や投資に回すのが賢明です。
おそらく、今の若い世代は自然とそういうムーブをしているのではないでしょうか。
「彼氏が実家暮らしだから幻滅」という時代でもない気がします。
むしろ、手元資金をどう管理して増やしていくかのほうが現実的な判断基準になっているように思います。
何かしら挑戦はしているだろう
こうしてあれこれ考えてみると、「もし令和に生まれていたら」なんて話をしても、根っこの部分はあまり変わらない気もします。
結局、どんな時代でも、“自分の手で選択する”ことの重みは変わらない。
ただ、情報の多さと自由度が増した今の若い人たちは、本当にすごいと思います。
SNSで誰でも発信できるし、仕事の形も無限にある。
その分、選択肢の多さに疲れることもあるでしょうが、選べるということ自体が一つの力なんですよね。
もし今、令和の20歳に戻れたら――
たぶん私は、また何かに一生懸命になって、失敗して、ブログに書いていると思います。
そう考えると、今の生き方もそう悪くないなと思えるから不思議ですね。


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