「今まで生きてきて、挫折した経験はありますか?」
そう尋ねられたのは、私が国税専門官採用面接を受けたときのことでした。
少し考えてから、私はこう答えました。
「~や~などの辛い経験はありましたが、私自身、それらを“挫折”だと思ってはいません。ですので、挫折経験は無いです。」
その瞬間の面接官の表情は、なんともいえず微妙なものでした。あ、これはマズかったかもしれないな……と心の中で小さく反省した記憶があります。
が、結果的には受かっていました。
もちろん、面接の評価基準は一つではないでしょうから、それが決定打になったとは思っていません。ただこの一件以来、「挫折経験の有無が人間の魅力に直結するかどうか」という問いについて、自分なりにずっと考え続けてきました。
「挫折は美徳」という空気
近年、あらゆる場面で「挫折経験が人を成長させる」「失敗を糧にすることが大切」といった言説が溢れています。SNSでも、講演会でも、自己啓発本でも、口を揃えて言うのは「一度や二度の失敗を恐れるな」「挫折したからこそ、今がある」といったようなこと。
それが悪いとは思いません。確かに、人生において何らかの壁にぶつかり、それを乗り越えたことで得られるものがあるのは事実です。
でも、その価値観があまりに“正しすぎる”ものとして一人歩きしていることに、私は少し違和感を覚えます。
まるで「挫折していない人間には深みがない」と言わんばかりの空気感。あのときの面接官の表情も、今思えばそのような価値観に引っ張られていたのかもしれません。
挫折は主観でしかない
そもそも「挫折」という言葉は、ものすごく主観的です。
たとえば、同じような困難に直面した二人がいたとします。一人は「自分は打ちのめされた」と感じ、もう一人は「辛かったけれど、なんとか踏みとどまれた」と振り返る。前者は「挫折経験がある」とされ、後者は「挫折経験がない」とみなされることになるでしょう。
でも、どちらが優れているわけでも劣っているわけでもありません。たまたまメンタルの強さや、周囲の支え、あるいはそのときの体調などが違っただけかもしれません。なのに、その違いだけで「挫折経験の有無」で人を評価するのは、あまりに乱暴な気がします。
挫折しなかった人は努力していないのか?
もう一つ思うのは、「そもそも挫折しないように日々を積み重ねている人」が過小評価されがちだということです。
やるべきことを淡々とやって、状況を悪化させないように注意深く立ち回る。無理をしないで、でも怠けすぎないようにして、転ばないように歩く。そういう人は、挫折を経験することは少ないかもしれません。
でもそれって、本当に「経験が足りない人」なのでしょうか? むしろ、日々自分を律して、崩れないように積み上げてきたからこそ、大きな壁にぶつからずに済んでいるのかもしれません。
私は、どちらかといえばこのタイプです。高校時代も大学時代も、順風満帆とは言いませんが、基本的には「やるべきことをきちんとやってきた」という自負があります。やらかしたこともありますが、それを引きずらずに自分で立て直してきた。だから、いわゆる「立ち直れないような挫折」には至っていないのだと思います。
「辛い過去=価値」ではない
もちろん、辛い出来事を乗り越えてきた方々には、尊敬の念を持っています。その経験があったからこそ、今の自分があるという方も多いでしょう。
でも、その「乗り越えた経験」そのものが価値なのではなく、そこから何を学び、どう行動を変えたかの方がよほど重要なのではないでしょうか。
辛い経験があったから偉い、ではない。辛い経験を「価値あるもの」に変えた行動が尊いのだと思います。
それは、別に「挫折」をしなくてもできることです。
自分の価値は、自分で決める
もし今、この記事を読んでいるあなたが、「自分には大きな挫折経験がないから、人間的に薄っぺらいのではないか」と悩んでいるとしたら、それは完全に取り越し苦労だとお伝えしたいです。
人の魅力は、苦労話の数や深さでは測れません。
誠実に、淡々と、目の前のことに向き合っている人。自分の感情を丁寧に受け止めて、他人にやさしくできる人。そういった“挫折とは無縁”に見える人たちに、私は何度も救われてきました。
挫折がある人生も、ない人生も、どちらも尊い。
自分の歩んできた道に胸を張って、そこから何を得て、これからどこへ向かおうとしているのか。そっちの方が、ずっと大切なことなのではないでしょうか。
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