「ととのう」とは何か——幼少期のおしぼり体験から考える

「ととのった〜」という言葉を耳にすることが増えました。サウナに行くと、心地よさそうな表情の人がいて、彼らはたいてい満ち足りた顔で「いや〜、ととのった」とつぶやきます。

ですが、ふと思います。そもそも「ととのう」とは、みんな同じ感覚なのでしょうか。

サウナ愛好者の間では「ととのう」ことが一つのゴールのように語られることが多いですが、実際のところ「ととのう」ことに執着しすぎると、逆に叶わなかったときの落胆が大きくなります。たとえば、体調や環境によっては全く「ととのわない」こともありますし、期待しすぎると「今日はダメだった……」と落ち込んでしまうこともあります。

そもそも「ととのう」とは、それほど特別なことなのでしょうか? そう考えていたとき、幼少期の記憶がよみがえりました。

幼少期のおしぼり体験——初めての「ととのい」

幼少のころ、冬の寒い日に家族で飲食店へ行ったことがありました。外は凍えるような寒さで、手足がかじかんでいました。席に着くと、ほんのり湯気を立てる温かいおしぼりが出されました。

何気なくそれを手に取り、最初は手を拭こうとしました。しかし、その温もりがあまりに心地よく、思わず胸のあたりに押し当ててみたのです。すると、じんわりと温かさが広がり、身体の芯までじわっと満たされていくような感覚がありました。

「あれ、なんだかすごく気持ちがいい……?」

それはただ温まっただけではなく、身体のスイッチがゆっくりと切り替わるような感覚でした。寒さで縮こまっていた心と体が、一瞬でふわっとほどけるような、心地よさに包まれる瞬間。そのままぼーっとしてしまうほどの、多幸感にも似た心地よさがあったのです。

「もしかして、あれが初めての『ととのい』だったのでは?」

大人になりサウナに通うようになってから、そのことを思い出しました。

サウナとおしぼり——あの感覚がもう一度

大人になってから、サウナというものに出会いました。当時は「外気浴」の存在を知らず、サウナと水風呂を繰り返すだけでした。

しかし、ある日、サウナでしっかり汗をかき、冷たい水風呂に入り、再びサウナへ戻る——それを何度か繰り返していると、ふと幼少期のおしぼりの記憶がよみがえりました。

あのときの感覚と、今、まさに感じている感覚が似ているのではないか?

サウナの熱で身体をしっかり温め、冷たい水風呂で一気に引き締める。その後、再びじんわりと温まるとき、身体の中で何かが「ふわっ」と解けるような瞬間が訪れます。まさにあの、幼少期におしぼりを胸に当てたときの感覚と同じでした。

「これが、ととのうということなのかもしれません」

「ととのい」に正解はない

「ととのう」という感覚は、人それぞれなのではないでしょうか?

ある人にとっての「ととのい」は、頭がスッキリして視界が開けるような感覚かもしれません。別の人にとっては、体が軽くなり、まるで空を浮いているような気分かもしれません。もしかすると、私のように幼少期の記憶とリンクする人もいるかもしれません。

そう考えると、「ととのうこと」に執着するのは、あまり意味がないように思えます。そもそもサウナは「ととのうために行く場所」ではありません。温まり、リラックスし、心地よい時間を過ごすことが本来の目的のはずです。

「ととのうこと」を目的にしすぎると、「今日はととのわなかった……」と落ち込んでしまいます。でも、ふとした瞬間に「今、気持ちがいいな」と思えたなら、それだけで十分ではないでしょうか。

おしぼりからはじまる「ととのい」の旅

サウナに行き、「ととのう」感覚を知ったとき、幼少期の記憶がよみがえったように、誰しもが自分なりの「ととのい体験」を持っているのかもしれません。

たとえば、夏の暑い日に冷たい麦茶を一口飲んだ瞬間。冬の朝、布団の中でぬくもりを感じながら二度寝するとき。海辺で波の音を聞いているとき。

そうした日常の中の「ととのい」を見つけていくことこそが、本当の「ととのい」なのかもしれません。

たかがおしぼり、されどおしぼり。サウナがなくても、日々の小さな瞬間に「ととのい」はあるのです。そんなことを思いながら、週末もお風呂の王様へ向かう予定です。

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