私は中学から大学まで、いわゆるエスカレーター式の私立校に通っていました。大学に進学すると、幼稚園からの内部進学組、初等部から組、中等部から組、高等部から組、そして大学から入ってくる外部組まで、出身の入口は実に多様になります。同じキャンパスにいながら、育ってきた環境も、お金の感覚も、価値観も大きく異なる人たちが行き交っていました。
私は中等部からの組でしたが、高校に入るとき、大学に入るとき、その都度「内輪だけで固まるのはやめよう」と意識していました。高校では高校からの入学組と積極的に関わり、大学では大学入学組と意識的に絡むようにしていました。今振り返ると、この姿勢があったからこそ、自分の視野は少しだけ広がったように思います。学生時代の交友関係が今でも比較的広く続いているのも、その影響が大きいと感じています。
附属の幼稚園や小学校組の金銭感覚
社会人になってから、特に就職活動を通じて強く感じたのが、附属の幼稚園や小学校から上がってきている同級生たちの「家の経済力の桁違いさ」でした。本当に一般的な感覚とは段違いの家庭環境の人が少なからず存在していました。
彼ら彼女らに共通して感じたのは、驚くほど無駄遣いをしないことです。お金は必要なところにだけ使い、使うと決めたときは迷いがありません。そして最も特徴的だったのが、「雇われて働く」という発想よりも、「自分で仕事を作って稼ぐ」という発想が自然に身についている人が多かった点です。実際に小規模でも起業していたり、個人で仕事を請け負って生活していたりする人が何人もいました。
一方で、学業成績だけを見れば、高校から入ってきた人、大学から入ってきた人のほうが優秀でした。それでも、社会人として数年、十数年と経った今、「結果としてどちらが豊かになっているか」という点だけを切り取ると、附属の幼稚園や小学校からの同級生たちのほうが、圧倒的にお金を持っているように見えます。大学から入ってきた人たちに関しては、就職活動ありき、会社員人生ありきという印象が強く残っています。
親のコネではなく親の背中だったのかもしれない
こうした話をすると、「結局は親のコネや遺産のおかげなのでは」と言われることもあります。しかし、それだけでは説明がつかないようにも思います。
附属の幼稚園や小学校からの同級生たちは、小さい頃から「お金を持つということ」が特別ではない世界で育ってきています。お金をどう使い、どう増やし、どう守るかという感覚を、本やセミナーではなく、日常生活の中で親の背中を通じて無意識に学んできたのではないかと感じます。
本で「巨富のマインドセット」を学んだのではなく、最初からその思考様式の中で生きてきた。だからこそ、遺産がなくても、結果として自力でお金持ちになっている人が多いのではないかと考えています。
私自身の家庭環境と、後から学ぶという選択
私自身は、いわゆる典型的な中産階級の家庭の生まれです。親は中小企業を経営していましたが、お金の考え方や稼ぎ方について特別に教えられた記憶はありません。日常的に仕事の現場を見せてもらっていたわけでもありません。躾の面では当時としては標準的、令和の現代の感覚からすれば少し厳しめだったかもしれませんが、不自由なく生活させてもらいました。その点については、今でも感謝しています。
一方で、「お金をどう生み出すか」「どう増やすか」といった発想を、家庭内で自然に身につけてきたわけではありません。多くの人と同じように、生まれた環境の範囲の中で育ってきただけです。いわゆる親ガチャという言葉がありますが、子どもは親を選ぶことができません。
読書しか勝たん
だからこそ、重要だと思っているのが読書です。生まれながらにしてお金の考え方を教えてもらえる家庭にいなくても、成人してから本を通じて、いくらでも学び直すことはできます。成人してからでは遅いということはないと思っています。どのような思考様式と行動様式を身につければ、お金に不自由しない状態を作れるのか。それを学び続ける手段として、読書ほど優れたものはないと感じています。
もちろん世の中の全ての人がお金持ちになりたいという気持ちを強く持っているわけではないかと思います。しかしながら、お金に限らず、学校で教えてくれなかったことや、親の背中を見ても学ぶことができなかった分野については、本を手に取り、先人から学ぶということが一番有効的なのではないかと思っています。


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