最近、「発信力」や「影響力」が、従来のお金とは違う形で価値を持ち始めている、という話をよく耳にします。
正直なところ、私は理論としてこの話を理解したというより、体験を通じて「たしかにそうだな」と実感する場面が増えてきました。
発信していなければ、起きなかった出来事
私が「発信し続けてよかった」と最も強く感じているのは、公務員時代の出来事です。
当時、X(旧Twitter)でゆるく婚活をしている日常や、自分なりの考えをかなり率直に発信していました。今振り返ると、バズ狙いだったり、生成AIが書いたような整った文章というより、ネットの向こう側に生身の人間がいるという手触り感のある言葉を呟いていたような気がします。
その発信をきっかけに、DMをくれた方がいて、その方と結婚しました(衝撃の告白)。
また、婚活の発信がきっかけで、マッチングアプリ関連のメディアから取材依頼を受けたこともあります。
その後、税理士試験の受験アカウントに切り替え、模試の結果や日々の勉強状況を投稿していました。
正直、誰かに見せるためというより、自分のモチベーション維持が目的でしたが、結果的に試験合格まで走り切ることができました。
結婚したことも、税理士になれたことも、発信していなければ恐らく起きなかった出来事だと思っています。
いくらお金を積んでも再現できません。
一物一価から、一物多価へ
お金は、誰が持っていても基本的に同じ価値を持ちます。一方で、情報や影響力はそうではありません。
同じ内容でも、「誰が、どんな文脈で語るか」によって、価値は大きく変わります。
発信を続けて感じたのは、影響力は「信用」「関係性」「選択肢」といった形で積み上がっていく、ということです。
フォロワー数が多いかどうかよりも、「この人の言葉なら読んでみよう」と思ってもらえるかどうかの方が、ずっと重要だと感じます。
共感が先にあり、合理性は後からついてくる
SNSを見ていると、ときどき「正論を言っているのに、なぜか反発されている人」を見かけます。
多くの場合、その背景には「共感の前提」が抜け落ちているように思えます。
SNSは、もともと共感を媒介にしたメディアだと思ってます。
合理的で正しい内容であっても、語り口や文脈が合っていなければ、受け取られません。
それに気づかないまま正論を重ねてしまい、結果として反感を買っているケースも少なくないように見えます。
これは善悪の話ではなく、構造の話です。
発信をやめなくてよかったと思える場所まで
発信は、すぐにお金に換算できるものではありません。
ただ、続けていると、信用や人とのつながり、思いがけない選択肢として、あとから静かに返ってくることがあります。
私自身、最近はSNSでほとんど呟いていません。
ただ、この記事を書きながら、「またぽつぽつと呟いてみようかな」と思いました。
何かを主張するとか、役に立つことを書くというよりも、その時に考えていることを、そのまま置いていくような感覚でです。
高校生の頃、「さるさる日記」という日記レンタルサービスがありました。
当時は、本当にとりとめのないことを毎日のように書いていましたが、アーカイブを保存していなかったため、今はもう一切読むことができません。
あれは、今になって思うと少し悔しい出来事です。
当時の自分の考えや感情は、いくらお金を積んでも取り戻すことができません。
発信は、誰かに見せるためだけのものではなく、未来の自分に向けた記録でもあります。
続けてきたからこそ、振り返ることができる場所がある。
発信をやめなくてよかった、と思えるのは、きっとそういう地点なのだと思います。


コメント