妻が子どもを連れて、2泊3日の産後ケアに出かけました。本日が帰宅日です。
予定を聞いたときは、正直に言えば少し浮かれていました。その間は自分の時間を自由に使える、やりたい放題できるぞと。
ところが、その自由は早々に持て余すことになりました。
寂しくなるのが早すぎました
家に一人になってみると、思っていたよりずっと早く寂しくなってきました。
妻と子を病院まで見送って、家に着いた瞬間でした。部屋ががらんとしていることに、強い喪失感を覚えました。起きてほしくないことですが、もし離婚ということになったら、と一瞬だけ考えてしまいました。赤ちゃんのいないベビーベッド。妻のいない寝室。そうした光景が妙に心に残り、そのときの喪失感の、ほんの一部を先に味わってしまったような気がしました。
振り返ると、不惑(40歳)の誕生日のときにも、似たようなことをブログに書いていた気がします。同じ感覚を、また繰り返しているわけです。

ビスマルクの言葉として「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というものが知られています。私はといえば、自分の経験からすら学べていません。愚者にも届いていなかったようです。
自由を飼い慣らすのが難しい
昨日は昨日で「大学2年生の夏休みをもう一度過ごしたい」などと言いつつ、今日は「自由を飼い慣らすのは難しい」と言っている。自分でも、この一貫性の無さはどうなのかとちょっと思います。ただ、日々の心の機微をすくい取るという意味では、必ずしも一貫していなくてもいいのかもしれないとも思います。
国税の職員、いわゆる勤め人を辞めてから、自由に使える時間は増えました。お客さんは少しずつ増えていますが、週40時間きっちり働かないと回らない、という状況ではありません。労働時間でいえば、かなり保守的なほうだと思います。そのかわり、土日も働いています。
毎朝早く起きて、妻と交代で育児をする。その合間に、やるべき仕事を埋めていく。こうした流れそのものが、日々の規律を作っていたのだと気づきました。
ルーティンから外れた一日を過ごしてみると、生活がなんとなく自堕落な方向に流れていきます。決まった枠があるからこそ、かえって有意義に時間を使えていたのかもしれません。
しばらくは雨予報が続きます。来週以降もずっと雨のようで、外出する気にもなれません。一人で家にこもっていると、なんとなく悶々としてしまいそうです。
とりあえず、掃除をしました
まずは部屋の掃除をしました。久しぶりに帰ってきたときに部屋が汚れていると、さすがに具合が悪いからです。水回りも含めて、ひと通り片づけました。
あとは、図書館で借りていた本を読んで過ごしました。久しぶりにアニメでも観ようと思い、ネットで話題になっていた『日本三國』を観たりもしました。文明が崩壊した近未来の日本を舞台に、地方の役人だった主人公がのし上がっていく作品です。勤め人を辞めた身としては、なんとなく入口だけで親近感を覚えました。
こうして書き出してみると、自由な時間の使い方として、特別なことは何もしていません。掃除をして、本を読んで、アニメを観る。普段やりたいと思っていたはずのことも、いざ時間ができると、それほど大きな喜びにはならないようです。
決まった役割と、相手がいること。自分にとっての張り合いは、案外そちらにあったのかもしれません。
