先日、飲みに行った席で勧められた小説『一九八四』を読みました。ルミエール府中で借りた一冊です。

人から勧められた本を読むのは、いいものだと思います。自分で選ぶと、どうしても好みに偏ります。読む前から内容の見当がつくものを手に取りがちです。外から差し出された一冊には、その偏りがありません。普段なら選ばない領域に、自然と入っていくことになります。
『一九八四』が描く監視社会
『一九八四』は、ジョージ・オーウェルが1949年に刊行したディストピア小説です。全体主義のもとで、人々が徹底的に監視される社会を描いています。
物語の舞台は、オセアニアという国家です。人々の暮らしは「党」によって隅々まで管理されています。各家庭や職場には「テレスクリーン」という、映像も音声も絶えず見張る装置が置かれています。過去の記録は都合よく書き換えられ、何が事実だったのかも分からなくなっていきます。体制に逆らう考えを持つこと自体が、罪とされる世界です。
主人公はウィンストン・スミスという男性です。彼は記録を改ざんする部署で働いています。つまり、過去を書き換える側の人間です。それでいて、いまの体制に対して静かな疑問を抱えています。与えられた役割をこなしながら、心のどこかで違和感を手放せずにいる。そういう人物として描かれています。
作中には「ビッグ・ブラザー」という存在が出てきます。舞台となる国家オセアニアに君臨し、国民の崇拝を集める党の指導者です。真実省という機関によって神格化されています。ウィンストンが働く記録の改ざん部署も、この真実省に属しています。
ここから先の物語がどう転がっていくのかは、これから読む方のために伏せておきます。読み始めて二十ページほどで、別の作品を思い出しました。
『狂四郎2030』を思い出した
徳弘正也さんの漫画『狂四郎2030』です。1997年から2004年にかけて連載された作品で、こちらも管理社会を舞台にしています。
両者に直接の関係があるという記述は、軽く調べた限りでは見つけられませんでした。ですから、あくまで私の連想にすぎません。ただ、監視や管理という切り口で見ると、重なる部分が多いように感じます。
ひとつ違うのは結末です。『狂四郎2030』は、暗い世界を描きながらも前向きな終わり方をします。一方の『一九八四』は、最後まで後味の悪さが残ります。徳弘さんは、あえて対照的な結末を選んだのかもしれません。これも私の想像の域を出ませんが。
「ビッグ・ブラザー」という言葉のその後
ビッグ・ブラザーという言葉で、もう一冊思い出した本があります。経済評論家の三橋貴明さんによる『新世紀のビッグブラザーへ』です。
こちらは、『一九八四』のビッグ・ブラザーから言葉を借りていることを、はっきりと示しています。一つの小説が生んだ言葉が、別の書き手の手で、まったく違う文脈に置き直されているわけです。
原典をたどると、こうした広がりが見えてきます。一冊の本を、着想の源という角度から眺めるのは、なかなか面白いものだと思いました。
監視されない人たち
『一九八四』を読みながら、現代のことも考えました。いまはスマートフォンやインターネットが普及しています。国家に強制されたわけではないのに、私たちは自ら進んで監視される側に身を置いているのかもしれません。位置情報も、検索の履歴も、絶えず記録されています。
作中には「プロール」と呼ばれる人々が登場します。オセアニアの人口の約85パーセントを占める、最下層の集団です。彼らの多くは監視装置を持たず、干渉も受けません。党は彼らを脅威とみなしていません。「プロールと動物は自由である」とされ、人間としてすら扱われていない描写もあります。
そのプロールの一角で、おしめを干しながら歌う婦人が描かれます。監視されず、注目もされず、ただ暮らしている人々です。その何気ない姿に、党の支配が及ばない人間本来の生命力が宿っているように、私には読めました。希望があるとすれば、こうした人々の中にあるのかもしれません。
主人公のウィンストンも、このプロールの暮らしに、憧れを抱いているように見えました。「プロールと動物は自由である」とされる、その見張られない自由さです。それを読みながら、人間の根っこにある欲求とは何だろう、と考えさせられました。
突き詰めれば、それは原始時代に近い暮らしなのかもしれません。誰にも見張られず、ただ生きる。とはいえ、令和のいまになって、文明の利器をすべて手放す必要もないように思います。根っこの自由は失わずに、便利なものはありがたく使わせてもらう。案外、そのあたりにちょうどいい落としどころがあるのかもしれません。

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